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『奇妙な絵』を描く子供へのトラックバック
先入観を持って加害女児の詩を解釈したエントリーを書いた者として、少し噛み付かせていただきます。ご容赦を。 犯罪者の作品が注目されるのは、特別な事がない限り犯行後である。よって、犯罪の原因を探ろうとする目的を持った人が犯罪者の作品を見るに当たって、それが犯罪者のものであるという先入観をもっているのは当然である。しかし、先入観があるということと、その作品に何らかの犯罪に繋がりうる徴候がないということは別だ。逆に知っているからこそ、その視点から気付く部分もある。もちろん在りもしないのに見たいものが見えるという危険もあり、その危険を自覚して当たる必要はあるだろう。前もって情報を持っている事は、作品を鑑賞する際には邪魔になることもあるが、それ以外ではむしろ役に立つ事が多いのではなかろうか。 件の絵に関しても周辺情報との兼ね合いで、少女の心理に関して何らかの手がかりが呈してくる可能性もある。少なくとも、描かれた絵がドラえもんではなく、モンスターであったという事や、創作ファンタジーのキャラクターを好んで描いたということは判る。少女が好む創作ファンタジーがどのようなものか、読んだ事がないので分からないが、耽美的なものや頽廃的な内容であった可能性もあり、程度はどうであれ、少女の精神の形成に影響を及ぼした可能性はあるだろう。 以上、某局の番組を見たわけでもなく、殆ど可能性としてしか記せていない推論ばかりで、ニュース価値に関しての反論には全くなってないですが、犯罪者の作品に対する事後的な解釈についての弁明を試みてみました。 #
by yo_cy_an
| 2004-06-11 02:42
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もう一遍、報道された記事から全文を読む事の出来る詩、「許せない」について、部活をやめさせた母親との関係と、復帰後のバスケットボール部における他の部員との関係で論じてみたい。この詩に対する専門家の意見として、「この時期の子供には、親のいない子は特別と映る。母を亡くした御手洗怜美さんを悲劇のヒロインととらえ、なりたい存在として自分を投影したのではないか」(毎日新聞 6月8日)
という見方があり、私はこの意見に反対するものではないが、それでも、この詩には少女の親に対する心情や、その抑圧というものが投影されているように思えるのだ。完全に自分の価値観を偽ってモノを書くというのは実際かなりの技量がいる事ではないだろうか。 詩@許せない 加害少女がミニバスケット部をやめた時期について、2月であるという担任の話があったが、その後の読売新聞の記事によるとその過程はもう少し複雑であったようだ。部をやめたのは1月で、部員の不足から2月に復帰し、新人戦に出場したという。その後退部したのが4月で、理由は「練習日の変更を教えてくれない。仲間外れで嫌になった」からだという。少女が1月にミニバスケ部をやめた理由は、「練習で帰宅が遅くなる。成績が下がったからやめなさい。」と母親に言われたからであり自主的にやめたわけではない。その事で一時落ち込んでいたというから、本心は嫌だったのだろう。 「今まで一生懸命練習して2月に試合もある。それなのにやめろなんて・・。」そのように思ったのかもしれない。しかし、親を憎むわけにはいかない。その気持ちを昇華するために行った心理的作業がこの詩の中に見えるように私には思える。 「親がいなかったら良かったのにね。」バスケ部に復帰した少女に好意からこのように話しかけた児童がいたのかもしれない。それがこの詩を書くきっかけとなったのかもしれない。報道による情報では知る由もない事であるので、完全に私の推論でしかないのであるが。しかし、もしそうであったとするとこの詩は次のように解釈する事が出来るだろう。 この詩は抑圧的な自我、超自我の詩である。超自我とは無意識に刻まれた「為すべからず」という命令である。少女の家庭はかなり厳格だったようだ。決まりを遵守する事を求めたという。それでこの超自我も強かったのではなかろうか。少女はこの超自我に屈する事で、形式上母親を許そうとしている。「親なんていらない」、から「いなくなってしまった」の地平に立ち位置を変え、その気持ちを相対化し、無力化しようと試みる。「いなくなったらこんなに・・・さみしい」のだから。しかしそれでも「親なんていなければ良かった」は少女の抑圧された本心なのだ。友達はそれをいとも簡単に侵犯し、タブーへと誘うのである。そこで「ずるい」、「うらめしい」という言葉が出てくる。それにより、親にたいする抑圧された憎悪がこのやさしい友達へと転化されるのである。「あなたの親がいなくなったらわかることでしょう。/親に限った事ではないけれど、身内の人が死んでも /悲しいでしょう?」こうして、誘惑を断ち切る事で 母親への憎しみは回避されるのである。 この、詩へ共感のコメントを入れたのが被害者となった怜美さんだった。彼女は実際に母親を亡くしている。少女はこの詩を書く前にバスケットボールの大会での優勝に対して怜美さんから激励コメントをもらっており、それに対するお礼の意味をこめて、この詩を書いたのかもしれない。しかし、それでも少女の心を通して作られたものであるからには、何らかの心理が反映されていると考えても間違いはないだろうと思う。 以上二つの詩を私なりに解釈してみた。その結果、二つの詩はそれぞれ違った形で「死への望み」に視線が向けられている。しかし、それは無意識のうちに強く抑えられているのだ。 #
by yo_cy_an
| 2004-06-09 20:38
| ニュースなど
少女は何遍かの詩をそのホームページで紹介していたようだ。その中から新聞で取り上げられ、読むことの出来た二編の詩から、何か読み解けないか私なりに試みてみようと思う。まず、「嘆きの賛美歌」という詩である。
ロマンチックな詩である。社会派である。環境を破壊し、地球上の生物の命を奪う悪い人間を特権的な視点から非難している。生命の代弁者として、神に祈りを捧げる司祭として。しかし、その祈りは懐疑的である。この詩を残酷な殺人を犯した少女が詠んだものだと考えると、とても悲痛な気持ちになり心を動かされる。少なくとも私にはそう感じられる。しかし、そのような背景を排除して見るとこの詩は白々としたものに見える。 田舎の街でふつうに生活していても、あからさまな環境破壊や生物の殺害現場などを、直接見る事はそうあるものではない。また、田舎の良さを「都市にないモノがある」として讃えているが、実際にそのモノを実感として感じるためには都市部での生活を実感している必要がある。この詩にはそういった類いの実体験から来る言葉というものが欠けている。借り物の言葉が多いのだ。まるで教科書から飛び出したみたいに。 実際の環境破壊は少なくともこの日本における生活圏では身近な所から消えつつある。リサイクルや、環境ビジネスが盛んになり、環境問題に取り組んでいるという事が企業のブランドイメージを高める時代である。地域レベルでも、地元の川に鮎を戻そうとか、ホタルのいる川にしようとか、そういった地道な努力を行って、きれいな川を増やしてきている。それを行っているのは諸悪の根源としてこの詩の中で非難されている人間なのである。そういった事情が判っているとこの詩は白々しくて古くさいものに見えるのだ。 しかし、この詩にも著者の感情が込められた部分がある。それは、「殺さないで、沢山殺して殺して殺して殺して・・・」「神様はいるのですか・・・助けて下さい・・・」という部分である。 「殺して」を重ねることで繰り返される残酷さに無情を見、それを救ってくれるはずの神様を信じきることが出来ないにもかかわらず、助けを求めずにはいられないのだ。ここで、表現されているのは、次々に奪われていく命の残酷さと、それと対比されることで浮かび上がる、祈りを捧げる少女の美しさである。闇が深ければ深いだけ、光も眩しくなる。そこで、神が現れてあっという間に解決されては困るので神の存在にはクエスチョンマークが必然的に付加されるのである。この詩は死を欲しているのだ。そして、少女の懐疑的な祈りは神の助けの手の届かない、そのような死の存在によって成就されるのだ。 しかし、この詩が直接の動機なっていると考えることはできない。あくまでも、少女の美意識を垣間見る事が出来る程度のものである。なぜなら、この詩には殺す事はいけないというの常識的な倫理観がある。命を奪うものは悪だという考えが根底にあるのだ。この倫理観が180度転換しないかぎり、計画的な殺人を行うという事はなかっただろう。 #
by yo_cy_an
| 2004-06-08 21:50
| ニュースなど
少女は将来小説家になることが夢であると文集に書いている。「バトル・ロワイアル」が好きで、図書館で借りてはよく読んでいたという。この小説は映画化されてもおり、残酷な描写があることからR-15指定されている。少女は好きが高じてそのパロディともいえる小説「バトル・ロワイアルー囁きー」を書くことになる。部活をやめた2月から5月上旬にかけて少女はその作業に時間を使う。どのように級友を殺すかその方法を考えるのに時間を使う。ホームページで発表するのだ、より良いものにするためによりリアルに想像する努力もしただろう。そして書き上げて発表した。
怜美さんとの関係をこじらせる原因がこの小説にあったと考えるのは突飛なことでもないだろう。少女はこの小説の中で、クラスメートを皆殺しにしている。仮想世界のこととはいえ、友人であった怜美さんと同じ名字の登場人物も殺しているのである。これを怜美さん他、級友も読んでいただろうことは容易に想像できる。友人がたとえ物語の中での話とはいえ、自分を殺して一人生き残ったのである。あまり良い気はしない、むしろ反発を感じるだろう。表には出さずとも無意識のうちに沈澱して来る。 怜美さんが少女がダイエットをしていると知りつつ「重たい」といったのは、この無意識からくる反発、あるいは悪意だったように思える。少女はこの悪意を感じ取ったのだろう。なにしろ小説の中で美化された分身の犯した罪を一番知っているのは彼女なのだから。そこで、現実世界での復讐を恐れる心から、許しの保証としてその撤回を求める。しかし、受け入れられない。 さらに追い打ちとして「ブリッコ」との書き込みが、彼女を拒絶した友人からなされるのである。少女はネット上では悪びれてみせるキャラクターとしてふるまっていた。そのキャラクターを破壊するには十分な書き込みではなかろうか。実際少女は長い間、「良い子」を演じていたのだ。ネット上での振る舞いは恐らく、その「良い子」であることに対する劣等感からきていたのだろう。なにしろ、「バトル・ロワイアル」という、システムに強要されて憎くもないどころか好きでさえある人間を殺すという狂気の世界を描いた小説を好むという価値観を受け入れているのだから。 少女はこうして現実の世界での仲間といる安心と、ネットの世界での悪びれた自由な自分の二つの世界を同時に同じ人物によって破壊される危機に瀕したのだ。危機感からこれに対しても削除を求めるが受け入れられない。そこで強行手段に訴えることになる。怜美さんのホームページへの侵入である。本来、管理者のみが知るパスワードを知らなければ出来ない作業であるが、彼女はそれを知っていたのだろう。これは推測だが、パスワードの設定に立ち会っていたのではないだろうか。少女は怜美さんのホームページの作成を手伝ったことで、感謝されていたという。それほど仲が良かったのである。怜美さんのホームページに侵入した少女は悪口の書き込みを削除、さらには友達の分身であるアバターを消したのである。これは象徴的に彼女を殺したととることも出来るだろう。 ところが、この振る舞いが裏目に出るのである。仮想の世界での2度目の殺害を受けた被害者は次のような書き込みをする。 「荒らしにアッタんダ。ミンナもこういう荒らしについて意見チョーダイ」「じゃまた今度更新しようカナ」「マァ大体ダレがやってるかワわかるケド。心当たりがあるならでてくればイイし。ほっとけばいいや。ネ」 ネット社会では、人のホームページの改ざんをすると言う行為は、あってはならないものだ。犯罪行為とも言える。その事実を公表し聴衆を味方につけることでこの犯罪者の孤立を狙った書き込みである。これで、少女は決定的に追いつめられたのだろう。仮想小説で作り出された現実世界での孤立感をも感じてもいたのだとすると、これにより、二つの世界のいずれにも居場所がなくなってしまうのだ。 そして最後に少女にひとつの世界が残される。それは3か月の期間少女を熱中させ創造の息吹を吹き込まれた闇の世界だった。 少女は殺害方法を前日に合ったテレビドラマから思い付いたと言い。また、バトルロワイアルの2作目の映画を姉のカードを使ってレンタルビデオで借りて見たものを参考にしたという。いずれも活字ではなくそれをもとに、映像化されてより現実に近付いた殺人と狂気の世界である。そして最後にそれは現実のものとなる。 #
by yo_cy_an
| 2004-06-06 13:06
| ニュースなど
殺意から実際の殺害へいたる大きな壁。それをいとも簡単に乗り越えた11才の少女の心には何があったのだろうか。給食時間、ひとけのないカーテンを閉め切った学習室。そこで事件は起きた。友達に「ちょっとおいで」と呼び出され、椅子に座っていた少女は沈黙と暗闇の中、首筋に鋭い痛みを感じながら最後の時を迎えた。背後には、被害少女の温もりを伝えるその血にまみれ、折れた学童用のカッターナイフを持ち、四日前に決意し今まさに果たし終えたその行為の結末を呆然と見つめる少女。
非日常的でドラマチックなこの光景が、「みんな仲が良い学級」で現実に起こった。長崎県佐世保市立大久保小学校。その周りの景色は国内のどこででも見られるようなのどかなものだ。とても、凶悪な事件が起きる舞台のようにはみえない。 同級生を殺害した少女は、挨拶の出来る「ごく普通の子供」だったといい、両親は間違った育て方はしていないという。友達からは読書家と評される一方、5年生の2月までミニバスケットボール部に所属して熱心に練習し、試合に出て活躍したこともあるという。また、パソコンでインターネットを使いこなし、自分のホームページも持っていたというのだから、「普通」と言うよりも平均以上に才能ある小学6年生との印象を受ける。 その少女が殺意を抱くようになった事の発端は被害少女である怜美さんに「重たい」と言われたことらしい。少女は5月10日の日記で30キロ台に痩せるという決意を日記に書き込んでおり、また回りにもそのように宣言していたようだ。5月の下旬に少女がおぶさるなどしてふざけ合っている際に怜美さんや他の児童に「重たい」といわれるが、それを「自分が太っていると言われた」ように受け止めたという。その後、言い合いになるが期待したような反応が返ってこなかったようだ。 怜美さんはその日のうちに、掲示板に少女に対して「ぶりっこ」との書き込みをする。少女はこの発言を削除するように怜美さんに頼むが、聞き入れてもらえなかったので、怜美さんのホームページにパスワードを使って無断で侵入し、その発言を削除するとともにネット上での分身として使われるイラストである「アバター」を消すなどのいたずらを同時に行ったという。その後、5月28日掲示板に再び「荒らしに合った」、「誰だか判っている」といった書き込みがされていることを知り少女は殺意を抱いたらしい。 大久保小では30日に運動会があり、そこで二人は顔を会わせることになるのがここでも言い合いをしていたようだ。そして、振り替え休みである5月31日明けの6月1日、犯行は決行された。 少女は実際に太っていたわけでもないようで、常識的に考えると、たとえ重たいと言われたからといって殺意を抱き、実際に殺人を犯すまでにはいたらなかっただろうと考えられる。しかし、そうはならなかった。なぜだろうか。ネットでの顔の見えないやり取りが憎悪をかき立てるのに役立ったのか。 #
by yo_cy_an
| 2004-06-05 23:57
| ニュースなど
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